「ミスタープロ野球」昭和の取材秘話
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(4)長嶋さんに“限界説”が囁かれた1967年、東京駅で直撃するとそのまま名古屋まで付き合わされて…
長嶋茂雄に初めて「限界説」が流れたのは1967年のことだった。当時、プロ入り10年目の31歳。134安打、打率.283でリーグ12位と初めてベスト10から外れた年だ。チームは3連覇を目指し、5月に1…
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(3)アニマル長嶋のホームスチール事件が広岡達朗「バッドぶん投げ&職務放棄」を引き起こした
プロ入りの際に「ゴールデンボーイ」といわれた長嶋茂雄は、巨人入団後に野性味満点のプレーから「アニマル」の異名がついた。代名詞となった「燃える男」はそののち、想像をはるかに超える勝負強さを見せるように…
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(2)長嶋茂雄さんが語っていた「生涯で最高の思い出の試合」…見かけによらずファイターで、胸の底は古風だった
「七つ釦は桜に錨」(若鷲の歌)……子供の頃、長嶋は霞ケ浦上空を飛ぶ予科練の戦闘機を見ながらバットを振っていた。千葉・佐倉の実家から近い湖。それを眼下にして飛び去る姿に興奮したという。長嶋からよく聞いた…
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(1)長嶋茂雄氏の「逆転巨人入り」は、銚子の料亭旅館の仲居さんの一言から始まった
立教大2年生になると長嶋はプロ野球から本格的に注目された。「スカウトが山のように来たぜ」とは長嶋の2年先輩の大沢昌芳(のち啓二)の述懐。大沢は1956年に一足早く南海に入団したが、「予想外の南海入り…